*** 北海道観光 ***

とにかく大自然がいっぱいですばらしいところです。

水がうまい!

歴史

  • 先史時代
    北海道には数万年前の氷河期にシベリアから陸橋となった宗谷海峡をマンモスやオオツノシカなどの大型哺乳動物を追いかけて人類が渡ってきた。約1万2、3千年前には氷河が後退し温暖となってからは本州からも渡来したようである。

    道内各地で旧石器時代の発掘調査は、群馬県の岩宿遺跡で旧石器が発見されたのをきっかけに行われるようになった。それらの遺跡は約2万年前から1万3000年前の間、つまり後期旧石器時代と推定されている。現在のところ最も古い遺跡は、千歳市祝梅(しゅくばい)三角山遺跡と考えられている。この遺跡から採取した炭化材を放射性炭素年代測定法では21450±750年BPであった。出土した石器類は、ナイフ形石器・尖頭器・削器・石核などである。これらの石器の原材料となった黒曜石の産地は「十勝石」の名で親しまれている白滝村が代表的である。他には、置戸・十勝三股・赤井川などがある。

    縄文時代後期の周堤墓は北海道にしか見られず、特に石狩低地帯に集中している。最も大きいものは千歳市郊外にあるキウス周堤墓群で、知床半島の付け根部にある斜里町でも朱円遺跡、芦別市野花南、標津町伊茶仁(いちゃに)などで発見されている。

    続縄文文化 本州以南は多数の渡来人(帰化人)が移住することで弥生時代を迎えたが、北海道にまでは弥生文化(水稲耕作)が伝播せず、アイヌを中心とした民族により縄文文化が続いた(本州の弥生・古墳時代に並行する続縄文時代[7]は、紀元前2世紀から8世紀の奈良時代頃まで続いた)。この文化は、北はサハリン南端部、東は国後島・択捉島、南は東北地方から新潟県西部にまで及んでいる。 この時期のはじめの土器は東北北部の土器の影響が及んだ恵山式土器で紀元前2世紀から3世紀紀までを恵山文化と呼ぶ。この文化と弥生文化との交流を示す鉄器や碧玉製の管玉が見つかっている。また、この文化の影響が道央部に及んで江別式土器が出現する。この土器は後北式土器[8]とも呼ばれている。江別式土器を特徴とする江別文化は紀元前1世紀から7世紀頃までで、サケ・マスの漁撈生業を中心とした狩猟・採集経済である。この文化の遺跡からソバの花粉や緑豆の種子が検出されており、食用植物が栽培されていたと考えられる

    擦文文化 つづいて、7世紀後半より土師器の影響を受けて縄文がなくなり、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文式土器を特徴とする擦文時代となって、この文化を8世紀までを前期、9世紀〜10世紀を中期、12世紀頃までを後期の三期に区分する。この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって、12世紀頃には鉄器を持ち、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟した。

    オホーツク文化期 オホーツク海沿岸には、アイヌによって擦文時代が営まれていた頃、道東に漁業と海獣狩猟を中心とするオホーツク文化を持った人々が移住したが、アイヌ文化が成熟した頃に姿を消した。アイヌと完全に同化したか、アイヌに追われたものと考えられる。この古代文化は、3世紀から13世紀にサハリン、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に展開された。このうち、北海道に分布するこの文化の遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推測されている。

    和人進出
    古くは『日本書紀』に渡島(わたりしま)として登場し、阿倍比羅夫と接触を持ち、奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行なった。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていた。恐らく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられている。

    中世以降、北海道の住民は蝦夷(えぞ)と呼ばれ、北海道の地は蝦夷が島、蝦夷地(えぞち)等様々に呼ばれた。古代の蝦夷(えみし)は農耕も生活の柱としていたが、次第に狩猟・漁業に特化し、米や鉄等を日本人(和人)との交易で得るようになっていった。

    また鎌倉時代以降になると、後の松前藩や和人地の基礎となった渡党の活動が見られるようになる。

    松前藩 [編集]室町時代には渡島半島の南端に和人が道南十二館を築き居住地(和人地)を設けたことが考古学的にも確認されている。室町・戦国期には本土から和人の渡海者が増え、現地のアイヌとの間に対立が起きたという。近世以前の北海道に関しては松前藩の由緒を記した『新羅之記録』(寛永20年(1643年)成立)があり、同書に拠れば1457年(長禄元年)に起きたコシャマインの戦いで、甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる武田信広がアイヌの指導者コシャマインを殺し、和人の勝利を決した。信広は蠣崎氏を継ぎ、その子孫は後に松前の氏を名乗り、代々蝦夷地の南部に支配権を築いた(松前藩)。

    松前藩の経済基盤はアイヌとの交易にあった。安土桃山時代から江戸時代にかけて松前氏は征夷大将軍より交易独占権を認められ、アイヌとの交易条件を自らに有利なものに変えていった。アイヌはシャクシャインの戦いやクナシリ・メナシの戦いで蜂起したものの、松前藩によって鎮圧された。1784年(天明4年)からは蝦夷地の開拓を始め、沿岸にいくつかの入植地が建設された。

    江戸時代後期から、シベリアからロシアが領土を広げつつ日本と通商を求めるようになり、鎖国を維持しようとする日本と北海道近辺で接触した。中にはゴローニンや高田屋嘉兵衛のように相手国の捕虜になった人もいた(ゴローニン事件)。ロシアの脅威に対する北方防備の必要を認識した江戸幕府は、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬といった者に蝦夷地を(樺太・千島列島を含め)探検させ、地理的な知識を獲得した。また、1799年(寛政11年)に東蝦夷地を、1807年(文化4年)には西蝦夷地を松前氏から取り上げた。また、統治機構として1802年(享和2年)に蝦夷奉行を置き、後に箱館奉行、松前奉行と名を変える。幕府の統治はアイヌの負担を若干軽減したが、基本的な支配構造には手を付けなかった。ゴローニン事件解決以降、ロシアの領土拡大的な南下が停滞したため、奉行は1821年(文政4年)に廃され、全蝦夷地は松前藩に還付された。

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